中国最大のタブー“六四天安門事件”をわかりやすく解説|”軍による大虐殺“は本当なのか?

中国最大のタブーともいわれる『天安門事件』。

現在も中国政府がもっとも触れてほしくない部分として、ネットでも規制され、今なお言論統制が続いているほど。
これほど中国が包み隠す『天安門事件』とは、どんな事件だったのでしょうか。

今回は、中国最大のタブー事件とも名高い『天安門事件』の真相や原因、死者数をわかりやすく解説します。

 

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天安門事件とはなんだったのか

天安門事件とは、1989(平成元)年6月4日、首都・北京の天安門広場に集まった学生を中心にはじまった民主化を求めるデモ隊に対して、中国人民解放軍が軍事力によって鎮圧させた事件です。

 

天安門事件のきっかけ

事件が起こるきっかけとなったのは、天安門広場で学生たちによっておこなわれた、胡耀邦(こようほう)元総書記の追悼集会です。

この集会には、胡耀邦を解任した当時の最高指導者・鄧小平(とうしょうへい)を快く思わない者も数多く参加。
彼らは『打倒・独裁体制』と叫び、やがて追悼集会は独裁を続ける中国共産党への抗議集会と化していきます。

やがてこの動きは西安や南京にまで広がり、デモへと発展していきました。対して、中国共産党は『人民日報』の社説に、「学生たちの抗議活動には反対するように」と学生たちを非難した内容を掲載します。

この社説に猛反発した学生たちはハンガーストライキを組織し、天安門広場を占拠。行動が過激になってきた学生たちに対して、中国共産党はついに武力行使による鎮圧に乗り出したのです。

 

死者数

天安門事件では、鉄砲や装甲車などで中国人民解放軍が一方的に鎮圧したことで、多くの死傷者が出ました。中国政府が当時6月19日に公に出した死者数は、学生36人を含めた民間人218人と中国人民解放軍の兵士10人、武装警察官13人などを含めて319人。

しかし、一説には、死傷者ははるかに多いといわれています。たとえば、2014年に明らかにされたアメリカの機密文書には、中国軍関係者曰く「中国共産党は天安門事件での死者数を1万454人ほどと捉えている」とあります。

また、2017年に公開されたイギリスの機密文書にも驚くべき数字が書かれていました。
少なく見積もっても天安門事件では1万人に上る民間人が殺された、と当時の駐中国イギリス大使であったアラン・ドナルド氏が6月5日付にイギリス政府に打電した極秘の電報にあったのです。その数、中国政府が発表した死者数のおよそ40倍以上です。

フランス人の中国研究家ジャンピエール・カベスタン氏はアメリカの文書とも類似しているイギリスの公文書の死者数値は信ぴょう性があると述べる一方で、この死者数の差について中国政府はいまだになにも公言していません。

そればかりか、天安門事件の議論や天安門事件によって命を落とした活動家に関する追悼行事を一切禁止しています。

 

もう1つの闘争

天安門事件には、民主化デモの武力鎮圧だけでなく、中国共産党内の政権闘争という側面もあります。

事件当時、共産党内では、昔ながらの共産主義の徹底を進める鄧小平と、共産主義の枠を超えて経済政策をたてる趙紫陽(ちょうしよう)の2人が対立していました。とくに鄧氏率いる長老派は、天安門事件をきっかけにして趙氏の失脚を目論んでいたともいわれています。

若者から人気がある反面、長老派からは疎まれる存在となっていた趙氏は、天安門事件のきっかけとなったデモで、学生たちとの話し合いによる平和的解決を強く望んでいました。しかし、話し合いはことごとく決裂しています。

一方で、学生の活動を反社会的行動と早くからみなした鄧氏は、軍隊による武力弾圧を決行。同時に、学生たちに理解を示した趙氏の役職をすべてはく奪しただけでなく、死ぬまで自宅軟禁させたのです。

そして、事件後、鄧氏は総書記に江沢民(こうたくみん)を指名し、民主化運動が再度起こらないように国民に対して『愛国教育』を徹底していきました。

 

まとめ

中国国内では『天安門事件』関連用語の検索すら遮断されているほど統制が徹底しており、事件の全容を知らない人々も増えています。

一方で、事件から30年が経とうとする今も、真相解明を求める当事者や遺族も後をたちません。
いまだ沈黙を続ける中国政府。

今後、中国政府が『過去の歴史』として天安門事件をきちんと直視するときは来るのでしょうか。

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